November 25
<柳家小三治さん 電話インタビュー 11月23日>
問)まず、どのようなお気持ちで談志さんの訃報をお聞きになりましたか
小三治さん)
うーん、どのようなお気持ちねえ。いま、あなたで4件目ですけどね、みんな同じこと聞くんですけどね。
どのような気持ちで、何を期待しているのか知りませんけど、きっと新聞の記事になるような良い言葉は出てこないというか、ほどのよい言葉は出てこないんですけど、正直なところは、あーとうとうきたか。ああ、とうとうそのときが来たかということかな。
問)覚悟はできてらっしゃった。
小三治さん)
覚悟と言うほどのものではないね。人間はいつか死ぬものなんだからということはこの年になれば淡々として、受け入れられますから。
前々から「俺はガンだ」って、周りに叫び続けていたわけで、「俺はもう駄目だ」とか「死んじゃう」とか。「ガンなのに闘っている」とか色んなことを言ってましたけれども、最初はどの程度なんだろうと思っていたけど、それ言い出してから、もう長いですから。
お弟子さんたちも「大したことありませんよ」とか「口で言っているだけですよ」とか言うんですが、それは本当にそうなのか、談志さんが弟子に言わせてるのか、弟子が面白がって言ってんのか、それもよく分からないけど。まあガンだガンだと言っていてずっと、何事もなくきてるってことはあの人はやっぱり「生命力の強い人なんだな」と思っていました。
つい最近も会をやって途中で声が出なくなって駄目だったという噂もちらっと聞きましたけど、それが何の会なのかよくわかんないけど、それも彼のひとつのスタイルとして彼の生き方として、私の中では納得して聞いていたわけですよ。
だから覚悟はしているけど、覚悟はしているというのは「そうなったらどうしよう」ということでしょ?でも心配はしてないんです。まあいずれ、どうなるのか、俺の方が先かなということは思っていましたね。
問)それはなぜ、談志さんはああいっているけれども、ということですか。
小三治さん)強いね、あの人は。うん。
問)談志さんは復帰したあとも調子が悪いときがありましたけれども、やり抜こうとして、高座に上がろうとしていた談志さんの姿をどのようにごらんになっていましたか。
小三治さん)
亡くなってみると悲壮な姿だったとも言えるんですけれども、亡くならないときにそれを聞いたときは、彼としての意地を全うしているな、と思って悲壮な感じはしなかったですね。それをちゃんとお客さんに見せることによって、客も納得させているって言うひとつの、談志流の生き方ですね。
問)その姿勢は若い頃から兄弟弟子として見てこられて、生き方としては一貫していましたか。若いころどんな方だったか。
小三治さん)
そうですね。どんな方・・・やっぱり、才能がある。はなし家としての才能という点では私が出会った人の中では、まあ、群を抜いていたんじゃないでしょうか。
問)若い頃からそういう芽があった。
小三治さん)
そうですね。いくつの時に「現代落語論」ですか、私は読んでいないから分からないけど、書いた。で、その若さでこういうものを書いちゃうっていうところが、ひとつの才能であっただろうし、また、なかなかその若さではそういう本を出すというのは、勇気がいることなんですけど、それを敢えて、えいって出せるって言うか、何事も無く出せるいうところに、きっと才気があふれていたんじゃないんでしょうかね。
読んだ人の話聞いてみると、はなし家になった人たちの中にも、私はあの本を読んではなし家になろうと思ったとか、はなし家にならないまでも、あの本を読んで「社会ってものをこう考えるってことをと知った」という人が出てきているわけですけれども、彼の本の影響力は大きかったと思いますね。
あと身近な者として考えれば、わがまま、勝手好き放題にやったもんだということでしょうかね。それが天才であるという印なのかしらね。
問)お弟子さんもずいぶんと育っていますが、談志さんが育てたお弟子さんについては。
小三治さん)いやあ、よく育てたもんだと思っていますよ。
問)改めて落語界にとってどういう人だったと思いますか。
小三治さん)
存在としては、大きい人だったんじゃないんでしょうか。ないんでしょうか、というのは多少投げやりっぽい言い方ですが、それは絶対的なものとは言えないというところがありますよね。それはあの人があまりにも個性が強かったというか、自分の好む形以外は認めなかったって言う人でしたから。あの人もいい、この人もいい、っていう考え方はできなかった人ですから。
例えば、どこかで、「(古今亭)志ん朝の落語をどう思う?」って聞かれたことがあるんですよ。まだ志ん朝さんが生きている頃ですよ。
「いいんじゃないんですか」って言ったんですよ。そしたら「本当にいいと思うのか」って。「いいんじゃないんですか、ああいう落語もあり、お兄さんみたいな落語もあり、色んな形があって、それが落語界を作っているのだから」と言ったら「すぐお前はそういうことを言う」ってとっても不愉快そうにしていましたね。つまり、私が「あれは駄目だ」と志ん朝さんのことを指して言えば、きっと、意気投合したかったんでしょう。
問)ご自分のやり方を一番信じてらっしゃると
小三治さん)
そう。それで志ん朝さんが亡くなったときに言った言葉は「商売になる生き方をした」と言った。「はなし家として立派な人だった」という言い方はしない、でも世間の人は、はなし家としてとても商品になる生き方をしたって言うとそうだそうだ、と思う人がいて、彼の本当の心は、腹の中では認めてなかったんでしょ。そういう風に言っちゃうと話が深くなっちゃうんですけど、落語家は自分以外の芸を認めないですから。これやんないと、一国一城の主として生きていけないですからね。人の芸をほめるということはとても難しいことですよ。そういう点をあの人は平気で振り回していたっていうのかな、だから、兄弟弟子としてこの人もずいぶんわがまま勝手に生きるもんだと思って。
でも端から見ると、わがまま勝手に生きている様がこれがすごくかっこよくてすばらしいとかって、理由をつけて好きになる人もいましたよね。でも、そのわがまま勝手が許せねえという人もいました。
問)ただ小三治師匠はお互い認め合っているようにも思って見ていましたが。
小三治さん)
いや、あの人ははなし家としては最高に才覚を持っている人ですよ、すばらしい才能を持っている人ですよ。ただ、私としては、そうですねー、議員なんかにならなきゃ良かったと思うけど。でもあの人はそういうことが目的で生きていたとも言えるんです。権力にあこがれていた人ですからね。そのために三遊協会分裂のもとを作ったのはあの人ですよ。ねえ、それから、結局は落語協会を飛び出して、立川流とかっていう、家元とかっていう名前を自分でつけたわけで、誰も周りがいったわけじゃねえのに。そういうところもあの人らしいなあって。苦笑いをして見て来たわけです。
でも、まあ、それを通したために、世間がそれを認めるというか、それだけのパワーを見せつけられたって言うのは、すばらしいんじゃないんでしょうか。どうでしょうか。そういう点には私はあこがれませんですけどね。
問)いま談志さんにおっしゃりたいことがありますか。
小三治さん)いやあ、ありません。「よく生きたいように生きたね、良かったね」ってことかな。
(聞き手 科学文化部 野町かずみ記者)